(聞き手)
多賀城の住歴を。
(加藤様)
多賀城にはかれこれ40年程住んでいます。
(聞き手)
この地域の年齢構成は、どのようになっているのでしょうか。
(加藤様)
65歳以上の高齢者が、およそ36%ほどおります。昔から住んでいる人の多い地区なのです。
(聞き手)
災害の話や教訓などといったものは、教えられてきたのでしょうか。
(対象者)
いえ、そういったものはありません。
(聞き手)
区長さんは、チリ津波や宮城県沖地震、水害などは経験されてきましたか。
(加藤様)
宮城県沖地震での津波被害はありませんでしたが、チリ津波の時は経験しましたし、津波そのものも目撃しました。
(聞き手)
その時の経験が、今回の震災で何か活かされましたか。
(加藤様)
いえ、それはありません。何しろ、規模が全然違っています。しかし、大災害の平均周期などのデータはある程度信用していましたので、2009年に災害
準備金の積み立てを始めていました。もし何かあったら、その積立金で対応しようと考えていたのです。そのお金で備品を少し購入したり、備蓄用の食糧を用意することを考えていました。ですが、まさか2~3年後にこんな災害に襲われるとは思っていなかったので、当初は、批判も多くありました。「いつ地震が来るかというデータについて、これだけでは乏しいのではありませんか。」と言う方もいらっしゃいました。予測は難しいことなので、誰だってそう考えたと思います。
代わりに、災害
準備金を集めることには抵抗がありませんでした。その前にビデオを作って、もし地震や津波が来たらこうなるということを、集会がある度に流していました。半分は、強制のような形になってしまいましたが、こうした行動のおかげで、事前にそういうものが必要だと分かってもらえたと思います。
2009年には、大代地区全域で合同
防災訓練を行いました。緩衝緑地公園に600人ほどの参加者を集めて、その方たちに、今まで起きた地震の惨状をビデオ化した映像を見てもらいました。そのお陰で皆さんの関心を集める事ができました。地震は周期的に来ているので、いずれ来ることは間違いないという確証を、私は持っていました。そういったデータ収集は、私の得意な分野の一つでもあります。
(聞き手)
発災してからの対応はどのようなものでしたか。
(加藤様)
発災時には自宅におりました。私の
パソコンは受信機が付いていて、回線が落ちてもインターネットに繋がるようになっています。ですので、情報はテレビより先に確保できました。その後、津波が来るということ以外、海の状況が分からなかったので、南三陸町と気仙沼のFM放送を聞きました。その情報をもとに、多賀城ではあと何分後に津波が来るのか、おおよそ把握できました。
多賀城市の防災広報は停電で聞こえない状態だったのですが、私のところには、トラックに積み込める広報装置があったので、それを使って地区住民に津波が来ることを知らせ、避難を促しました。また、高台にいる人たちには、そこから動かないように伝えました。情報が早かったお陰か、第一波が来る前に移動は終わりました。ですから、この地区では最低限の被害で済みました。
その後、指定避難所の東小学校の体育館に向かった方もおりました。体育館は、避難所として開設されましたが敷物がありませんでした。寒さのため、具合が悪くなってしまったお婆さんもいらっしゃいました。救急車を呼んでも来ないため、私の車で坂総合病院まで搬送しました。治療が終わったら連絡するようにとトランシーバーを病院に置いてきました。携帯電話が通じなかったためです。治療が終わったらまた病院に出向いて、その人と一緒にトランシーバーを持って帰ってきました。一番困った事は病人の搬送でした。他にも、薬が切れてけいれんを起こしてしまうような方もおりました。救急車はほとんど来なかったので、3~4日後にはそのような仕事が増えました。同時に、常飲している薬を持っている方には、体調をご自身できちんと制御するように伝えました。
また、限られた食糧でしたが、考えている通りの食糧配分などをすることができました。水や電気、ガス炊飯器などがなかったので、炊飯すること自体難しかったですが、どうにか米を炊くことができ、集会所で配りました。水もなるべく少量で我慢してもらって、飲料水は一日に20リットルの瓶2本というように決めて配っていました。自分たちでなんとか確保できていたので、他の地区と違って、給水車や食料の配給を持つようなことはありませんでした。
(聞き手)
電気等のインフラの寸断を予測し、情報不足を防ぐための準備もしていたとのことですが、どのような準備をされていたのですか。
(加藤様)
前々からそうなるだろうと想定していたので、発電機を起動させて、
パソコンやテレビ、
ラジオを全て使えるようにしてありました。ですから、情報不足にはなりませんでした。塩釜にはエフエムベイエリアという災害FM局があるのですが、そこに助けてもらった部分がだいぶあります。エフエムベイエリアは、震災の2日後に臨時災害FM局として申請をして、塩釜市役所から情報発信をしていました。その放送が大代北区まで届いていたのです。テレビでは県単位の情報しか流れてきませんが、ベイエリアでは地区単位の情報を聞くことが出来たので、行動の参考になりました。例えばどこの商店で何を配布しているというような情報も知ることが出来ました。災害時は情報を得ることが一番重要です。市では防災放送を防災無線に変えましたが、それも必ず聞こえるとは限りません。災害FM局を早く立ち上げて、
ラジオで地域の情報を知らせることで、情報不足を防ぐことにつながるのではないでしょうか。
区長会のブロック研修会で、先進地の災害FM局の見学のため、気仙沼に行ってきました。気仙沼の防災FM主局は南三陸町の本吉にあります。多賀城市は浜に隣接している地域なので、ここも主局になることができるだろうと考えています。